岩谷観音堂で検索すると、千葉の富津にある珍スポットの方がズラズラと出てきてしまうのですが、自分が長野旅行で訪れたのはもちろんそちらではなく、比叡山第三座主慈覚大師円仁によって開基されたこのお寺の方。当地の看板によれば、ご本尊は慈覚大師御謹刻の観世音菩薩で、写真の観音堂は二百二十年ほど前の安永六年に建築されたものとのこと。それより以前はこの裏の洞窟に安置されていたそうです。
階段のすぐ下に駐車場があるのですが、この日は道路工事中で工事車輌が独占していたため、やむなく道路の端に車を寄せ停めて早々に参拝をすませることにしました。布引観音のお詣りを終えてガクガクの膝足に無理を強いてどうにか階段を上りきると、朱塗りのお堂が姿を現します。
そういえば階段の途中、南無観世音菩薩の赤い幟がはためく踊り場に看板がありました。それによるとこの寺は木曾義仲と縁があるらしく、彼が木曾からこの地を訪れたおり、戦勝祈願でこの寺に立ち寄った後、信濃関東の兵を参集して北陸道を辿って京都へ攻め入ったとのこと。そのときの手植えの桜が「義仲桜」として残されています。
お堂のすぐうえにまでせり出した大岩がなかなか壮観で、この雰囲気は以前に訪れたことのある宇都宮の大谷寺を彷彿とさせます。あそこは大型バスで観光客がぞろぞろと訪れるほどに観光地然としていましたが、こちらは無人。観音堂まで上がってくる途中に住職がいるとおぼしき建物があったものの、人のいる気配はありませんでした。
看板には大きく「観音様え(ママ)へのお詣りは「南無観世音菩薩」とお唱えください」とあります。しかしながらここは失礼して、開経偈、般若心経、観音経と自分が観音巡りをする際の定番を納経します。
この観音堂のすぐ手前、階段を上がってきた左手には真新しい阿弥陀如来堂がありました。観音巡りが自分の主目的ではあるものの、覚えている陀羅尼や真言が”使える”場所を見つけるとついつい納経したくなるのが自分の悪い癖で(^^;)、ついでといってはなんですが、ふたたび般若心経と阿弥陀如来根本陀羅尼を唱えて、ここ宝蔵寺でのお詣りを無事終えることができました。
さて、ネットで渋滞情報を調べてみると、ようやく長野自動車道の事故処理も終えたらしく渋滞は解消している様子。すでに昼を過ぎようとしていましたが、これから当初の目的であった善光寺へと向かうことにしました。続く。